【虹をめざして子どもらと】


 二月二十日
 学童保育の指導員になるならその土地に住みつこうと考えて、いろいろ安くていいところをさがしたが、結局六畳で一番安い部屋「八千円」に決める。なにしろ安いことを第一条件にしたので不動産屋に学生と思いこまれる始末。アパートの谷間の暗い部屋だが寝るには不自由しないだろう。ともかく月給八万円の生活がはじまる。

 
三月一日
 ここは市の条例で、「上福岡市学童保育の会」に運営が委託されている。いわゆる公立委託である。
採用第一日目。職員会議でみんなに紹介されたが「先生」と呼ばれて、なんとなくてれくさい。学生時代とはひと味ちがう。
 三月中はフリー指導員として市内にある六つのクラブをまわることになった。最初の仕事はなかよしクラブで、学校から帰ってきた圭子ちゃんを自転車に乗せて通院することだった。待合室で、母親に連れられてくる子どもを見ていると指導員の仕事の重さをあらためて感じる。学童保育のこと、友だちのこと、兄弟のことなど、はじめて会った圭子ちゃんに休む間もなくあれこれと話しかけ、治療のあと歌を歌いながら帰ってきた。

 
五月十一日
 三上君がまたも泣きながら帰ってきた。同級生に手を引かれ、ランドセルの後を押してもらい、とうとうすわりこんでしまった。きょうで四日目になる。
 この間、クラス担任の先生が学校から手を引いてついてきてくれた。クラスの友だちがつれてきてくれたり、学童保育の上級生に迎えに行ってもらったり、いろいろと手を尽くしてきたのだが思うようにいかない。
 保母さんの話しによると、保育園三年目の頃にも集団遊びは苦手で、朝送ってきたお母さんの後を泣きながら追うこともあったようだ。
 学童保育でもおやつの時間に席を立たないよう上級生に注意されたことが原因で、机の下にもぐりこんで足にしがみついたまま出てこないといった事も何度かあった。
この三上君は私に与えられた課題だろう。彼の好きなもの、彼のできることは何なのだろう。とちかく仲よしになることなのだが。

 
五月十五日
 三上君のお母さんから電話があり、「学童保育をやめさせたい」とのこと、さっそく先輩指導員の土居先生と相談して明日の家庭訪問を決める。

 
五月十六日
 三上さん宅へ伺った。子どもの状況は思ったより大変で、朝、家を出る時に泣きだしたり、学校でも四時間目が終わる頃になると泣きはじめるという。そんなことから、もし登校拒否でもおこしたら困るというのが両親の心配である。
しかし、もしいま学童保育をやめることで問題を解決してしまったら、学校生活のなかで何か問題が生まれた時には本当に登校拒否をおこしてしまうのではないか、学童保育の生活を続けながら、そういう山を乗り越える力をつけていかなくてはならない、という話し合いとなる。
 私自身「登校拒否」ということでは、「もしかしたら」という両親と同じ不安を持ちながらも、絶対に自信があるような態度と言葉で話し合いを進めていることに気がつく。「ここでこの子をやめさせてしまったら取り返しがつかなくなる」という一心からだったのだが、いつの間にか「この子が本当に登校拒否児になるようなことになったら、指導員をやめてでもこの子に関ってやろう」などと決めていた。
 指導員生活三ヶ月足らず、心の熱さばかりが先行している自分に気づき、冷たい頭をとりもどさなければと考える。
試練を前になかなか寝つかれない。

 
五月二十三日
 兵庫県で教員をしている高校以来の親友が研修会で上京、私のアパートへ立ち寄ってくれる。もてなすどころか、「宿泊費だよ」と飲食代はむこう持ち。にくい心づかいだがきょうのところはありがたくいただいておこう。飲みながら実践の話しは対等にするのだが、地方公務員がうらやましい。

 
六月七日
 またまた夜の会議がひとつ増える。職員会議での新しい任務分担で、地域(市内)の子どもまつり実行委員会に出席することになった。運営委員会、父母会、クラブ役員会他を含めると任務とするものだけで月十回位は必ず夜はつぶれる。
公民館の主催するこの子どもまつりは、市内の子どもに関わる団体(子ども会・少年団・文化財愛護サークル・人形劇グループ・ガールスカウト・保母会・学童保育等)が会し、すべての子どもの放課後の生活について話し合える唯一の場となっている。学童保育を理解してもらういい機会となるかも知れない。

 
六月二十四日
 またまた、夜の会議がひとつ。今度は自分の意思での参加であるが幼児教育講座(公民館主催)の準備会のメンバーとなる。保母さんたちと講座の内容づくりを進めるのだが、よく考えると、子どもの現状をどう理解してほしいのかとか、それを解決するためにどう子どもに対応してほしいのかというように、学童保育で先輩の土井先生と父母会に向けた打ち合わせをしているのと、内容が全くよく似ていることに気づく。

 
七月十四日
 指導員になって初めて虹を見た。げんかんのそうじ当番の子どもたちが「虹だ、虹だ」とさわいでいるので気づいたのだが、むこうの屋根からこちらの林まで切れずにかかった立派な虹を見て、久びさにすがすがしい気持ちになった。
当番の途中であることも考えずに、「おーい、みんな虹だぞー」と大声でさけんでおいて、市内の各クラブに連絡網で流してしまった。
 興奮のあまり、つい自分が一番に見つけたような気になっていたのだろう。後でほんのっちょっとてれくさい思いもしてしまった。
大きく腕組みをしてながめていると、脇にいる三年生のとしゆきが腕を組んでまねをしている。
 目と目が合ってお互いにニヤッと笑う。「先生あんなすべり台ですべってみたいね。」「すべっておりた所が水たまりでボッチャン、はまったりして。」と一年生。子ども達のこんな会話を聞いていて、つい自分の子どもの頃を思い出してしまった。
「みんなであの虹に登ってみようか。」
「うん、いいねぇいいねぇ」「いこう、いこう」と大賛成を得て、さっそく行動開始となる。
「おーい、ロープ持っておいでよ。」
「ロープなんかどうすんの。」
「そりゃあ、登るときに虹にひっかけるのさ。」
「いいねぇ、いいねぇ。」
「ほら急いで、急いで。」
「へーい」
といつにない戸部君のいい返事。
 子どもにロープをかつがせて、すぐにも手の届きそうな虹に向かって一列の行進である。
道路から畑へ、空地からあぜ道へと、歌を歌いながら早いペースで進んで行く。靴が汚れても気にする者もいない。一年生がときどき小走りにかけてきて遅れる者は一人もいない。夢のある行進が続く。
ところが、どこまで行っても、いっこうに虹は近くならない。それどころか、そのうちに、だんだんうすくなり、下のほうから少しずつ消えそうになってくる。
 草原にすわりこんでしまって、「どうしても登りたい」「さわるだけでもいいよな」としょげる子どもたち。「今ごろ登っている最中で、だんだんうすくなってたら、こわかったろうな。」の一言でみんながほっとしたようす。
ほんとうに短く感じられた一日だった。

 
九月十六日
 三上裕一君の連絡帳にキャンプ前日のことが書いてあった。
(前略)裕一も夏休みよりぐずぐず不平を言わず学童へ行ってくれましたし、今日はホッとしております。友達関係もうまくいっているようですし、自己主張が出来るようになったようで一安心です。
キャンプ前日。うきぶくろを持って行ったとき、裕一が先生にふくらましててよと言ったら、先生は自分でふくらませないなら持っていっても仕方ない。
 家で練習してふくらませるようになったら持っておいで、と言っておられたのを見て、私すごく反省しました。私は手をかけすぎ、又心配のしすぎで裕一の伸びて行く芽を私自身が先に取ってしまっていたようです。
以前に比べると靴もだいぶよごれているようですので聞きましたら、ドロンコ遊びをしたとか言っていました。とてもおもしろいよっていっていましたので、お母さんも小学校の頃は男まさりで、ドロンコ遊び、かんけりとずいぶん遅くまで遊びすきてもまだ遊びたらなくてね・・・等話をしました。
 三上君は五月以来毎日のように「こま」に熱中し、どじょうすくい、ひもかけてのせ、空中手のせと技術を身につけながら友達に認められ、誰とでも遊べるようになってきた。
 保母さんや近所の人たちから「裕一君は人が変わったように明るくなった」と言われたとき、「たしかに、たのもしく思っているけれど、私のそばにこなくなって、さびしい気持ちもあるんですよ。」と言っていたお母さんが少しずつ変わってきているように思う。
子どもが成長する中でお母さんが変わり、お母さんの子どもの見方が変わったことに支えられて、子どもがより大きく成長している。

 
十一月七日
 職員会議でわがクラブの指導員のあり方が問われる。議題は「親子スポーツ大会の反省」で問題の中心はドッチボールについての指導にあった。
 わがクラブの子どもたちは、大会全体を通じて集合や解散が散漫で進行を遅らせがち。ドッチボールの試合にも勝とうとする意欲に欠けている。優勝候補だったのが六つのクラブ中五位で、充分力を発揮できなかったのではないか。
子どもは勝とうとする意欲を燃やし、みんなでまとまって練習し、試合に臨むことで成長して行く。
子どもの意欲を引き出し、目標を持たせて取り組ませて行くべき指導員は、この大会に向けて一体どんな方針で臨み、どんな援助をしてきたのかという私への質問であった。
 春からこのクラブの子どもたちを見てきて、これでいいのだろうかと考えることがあった。
それはドッチボールの最中に相手にヤジをとばし、ラインをふんだかふんでいないかなどということで一回毎にゲームを中断し、一人ぬけ、二人ぬけ、遊びを小さくしていってる子どもたちの姿である。昨年の親子スポーツ大会でもヤジとルール違反が目立ち、試合が終ってからも審判(指導員)に大抗議をしたと聞いている。この子どもたちに、あそびの楽しさとは、ルールとは、ということをどうわからせたらいいのだろうか。遊びを楽しみと感じるような子どもにしたかったのである。
そのことと、集団として勝つことを目指した指導のあり方について私は迷っていた。
時間をかけて整理していかねばなるまい。

 
二月二十日
 退職される先生の送別会。信じられないことだが、私が指導員になって約一年間にもう三回目になる。一回一回くやしい思いをしてきたが、もう、同じ別れの言葉をかざる自分がいやになってくる。
朝から晩まで忙がしい生活の中で、子どもが生まれたり、体を悪くして仕事を続けられなくなった先生たちになんと言えばいいのか。
 まだまだ身分保障がされない時期に指導員になり、少しずつ条件を向上させる活動をしてこられた先生に「子育てをしながら、病気と闘いながら続けている先生もいるのだろうから」とは言いにくいくらいきびしい職場。
やめて行く先生は泣いているのに、送るみんなも泣いているのに、とりつくろって、花束を送ることだけを考えていなければやりきれない。
そんな送別会だった。

 
三月十一日
 一年間の保育のまとめ、来年度の計画と何もなくても忙しいこの時期に、遅れていたクラブ移転の話しが重なってもう大変である。
遊び場もゼロに等しい二十名定員のこの施設に来年度は五十名になろうとしている。どうしても移転させなければならない。
 この二週間というもの、父母会、クラブ役員会、市長面会、担当課(保育係)交渉と回を重ね、会議の場所も、父母の自宅、クラブ、市役所の各室と点々としてきた。
一年以上も前から、日曜日を使って予定された土地を測量し、図面を書いて、トイレの位置から出入口まで父母会で話し合ってきた。土壇場にきて、「予算のわく」がこんなに大きな壁になろうとは思ってもみなかった。
しかし夜に、昼休みにと続く父母たちのねばり強い交渉で間取りを変更させ、建坪を増やしてきた。
 水道の蛇口の数、水道管の太さから工事の日程の変更までも各課との交渉でなしとげた。いまさらながら学童保育を生み出し、ささえ、発展させてきた父母の底力を思い知らされた。
 交渉が終って、ちょっと気がぬけたような私に、「先生、建設が始まったら毎日顔を出して、工事屋さんとの話し合いで解決できる所もあるからね。 先生と子どもが毎日生活しやすいように、後は頼んだよ。」と言いながらポンと肩をたたいて、また仕事に出かけて行く父母に頭の下がる思いだった。この父母たちに支えられて、父母の願いにこたえる実践を今後つづけていきたい。


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